04. 外伝

2011/02/21

≫ 雪がとける前、とけたところ、まだまだあるところ

【2011年2月21日】
イノシシの解体をするので、見に行ったらいいよ、と教えてもらいました。

山の上へあがってゆく道中には、うっそうとしていない林がありました。
Pads7111
凍結防止剤のおいてあるところのミラーに、風通しのよい林が映っていました。

Pads71091

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/01/03

≫ 実山のこと

帰省中の子供さんたちのなかで、「このブログ知ってますよ」との声を届けてくれた人がいました。きくおさんのところの娘、かずえさんでした。

実山の標高を知りたくて、インターネットで調べているときに見つけてくれたそうです。

神戸や東京へ住んだ経験のなかから、生まれ育った小代のことについて語ってくださりました。小さい頃は、スキー場がすぐ近くにあるのが当たり前だったけれど、大多数の人にはそうでないのだな、とあとあと実感したそうです。

いまは、大阪梅田の百貨店に勤めてらっしゃるそうですよ。実山へ来たことのある大阪の知人が、どのお店なのか聞いてほしい、と言ってたので、教えてもらいました。

‥もともと、その知人に、「この方がかずえさんです~」と見てもらうつもりで撮らせてもらった写真なのですが、ブログ記事に含めさせてもらってもよいでしょうか??

Nads5935_2
ダメですー、と手をふってらっしゃるのでしょうか?!

**

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/12/26

≫ 町のにぎわいは!

Nads5838
Nads5839

Nads56121
**

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/12/23

≫ お餅をついて食べました~♪ (1/2)

【2010年12月22日】
保育所や老人会の参加する、ふれあいイベントがありますよ、と実山のたまゑさんに教えてもらいました。一緒にお餅つきをさせてもらいました。

実山地区のお子さん、今日は参加されていませんでした。
私の住む新屋地区からは、よしゆきさんとちかこさんのほか、お子さんが多数参加されていました。ふだんなかなかお話のできない方の姿もみえ、貴重な機会でした~!

Nads56882
お餅つきに挑戦するゆうやくん。

Nads56892
少し熱があったけれども出てきていたりゅうきくん。力いっぱいつきます。

Nads56902
つぎおさんが一緒にお餅をついてくれました。

Nads5692dm
お餅をついたら、別の班がそれをちぎってまるめてゆきます。
‥どの大きさにすればよいか、たまゑおばちゃん(奥)に確認してね。

さらに、もうひとつ、野菜を型にくり抜いてゆき、お鍋の具材を準備する班があります。
みな、替わるがわる、班を移動してゆきます。

Nads5693dm
できあがり~。会場には、若いお母さんたちの姿もみえました。

一緒に餅をついた子供たちのなかには、その後、走って追いかけてくる子や、(私に)名前を尋ねてくる子、何かを訴えて話しかけてくる子などがいました。見知らぬものへの探究心は、やはり子供たちにはかなわないや!

私も、見習って、走って追いかけたり、名前をしきりに尋ねたり、何かを訴えて話しかけたりしなくっちゃ!

〔つづく‥〕

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/12/01

040.小代林業研究グループの発表を聞きに行ってきました。

【2010年8月26日】

おじろの林業研究会が、今年は、兵庫県を代表して、林業研究会の連絡協議会の近畿ブロックでの発表をおこなうそうでした。

林業研究会には、私の住む新屋の方々も参加されている様子でした。今年度は、実山地区のたかしさんが中心となって取組んでおられた、アオダモ植林の取組みについての総括をおこなうことになっていたようでした。「アオダモを植えて、バットになる木を育て、(木が育つまでに数十年) 未来の子供たちの手にバットを授けよう!」という取組みです。

林業研究グループとして取組みは、植樹そのものの技術的な課題を解決すること(「果たして、苗がとれるのか??」)や、出来上がった木からバットをつくる際に、どんな配慮が必要かを把握すること(「木のどの部位を使うとよいのか?」「本当に使い物になるバットができるか?」)などでした。

場所は大津の湖畔のホテルの会議場。
Nads_32861

  •  【小代林業研究グループ】 1984年10月に設立。現在の会員8人。年齢構成は 60歳~80歳(平均71歳)。会員の森林所有面積、平均20ha (人工林率 70%)。会費、年に3000円、香美町からの助成金 25,000円。今回、兵庫県内の審査対象であった 22グループのなかからの抜擢で、近畿ブロックでの発表をすることに。

Nads_3277

【ふれることのできる展示】 奈良県の代表グループが発表したスギ透かし彫りと、兵庫県の「バットの木アオダモ」は、手にとってみることのできる展示があり、人がよく集まっていました。たかしさんは、スギの透かし彫りの出来栄えに感心した様子で、話をきいたり、写真を撮ったりされていた。

さて、【2010年10月30日】
香住区の公民館で、「スポーツから学んだこと」という演題でのトークショーがありました。
上治丈太郎さん、という、ミズノ株式会社の専務取締役と、北京五輪の銅メダリスト、末續慎吾さん(陸上男子200mの記録保持者)が、お話をされていました。


「ウサインボルト選手が、100mを42歩で走る、ということがどういうことであるかを解明する話」などがありました。

ミズノ株式会社とは、林業研究グループのバットづくりの取組みのときに、色々とお世話になったご縁があり、この日のトークショーでも、小代の林研のひとたちが、(上の写真にあるような)パネルとバット試作品の展示をおこなっておられました。

バットづくりは、スポーツ振興の活動でもあるわけです。

このトークショーの日には、末續さんが、地元香住の中学校と高校で、特別レッスンをおこなっておられたようでした。すると、隣町の浜坂からも、高校生が駆けつけていたようでした。熱心なことですね、と上治さんは感心しておられました。

講演の終盤に、質疑応答の時間があり、たくさんの質問が寄せられていました。そのなかで、精一杯の勇気を出して質問をしてみた、という雰囲気の高校生男子がいて、息切れをしながらの質問をし始めました。(その息切れの様子がかわいらしく面白く、会場はすでにウケていました。)

質問のあと、末續選手が「呼吸が浅いですね。」との切り出して、回答を始め、これに「そうか、なるほど」と、陸上選手としての最初の心得のようなものを教えてもらったような心地になり、会場が沸いていました。

会場受付には、役場のイベントや図書館でお見かけする、(新屋の)よしてるさんの姿もみられました。

Nads_3293
さて、大津での林業研究グループの発表の話題にもどります。

実山地区での私の集落支援の活動のなかで、直接に、林業にかかわる取組みが、課題として出てきたり、なんらかの体験をしたり、ということがまだなかった状況でしたが、上司のあさみさんが、「たかしさんのお手伝いになるのであれば」「地区の人に喜んでもらえるのであれば」と、業務として、林研グループの人と同行することを認めてくださりました。

発表されていた内容は多彩なものでした。
それぞれに、地元で「林業の課題が広く認知されること」や、「多くの人が木の手入れをしたりする機会をもてること」のために取組んでおられるようでした。「高齢者の生きているあいだに、山林の境界についてちゃんと確認をしておかないかんはずやで!」と訴え、その実践について紹介する発表は、かなりユニークなものに思われました。「炭焼き職人が激減して後継者がいなくて困っている」と訴える大阪のグループによる発表では、「シカに新芽を食べられてしまう被害について、色々な試行錯誤の対策をしてみたところ、こういう方法で効果があがりました!」ということを紹介しておられ、なかなか素敵な研究だな、という印象を抱きました。

この発表会を聞きに行ったことで、11月に森林組合の人と一緒に藪払いをする作業に参加したときに、山林に入ることの面白さが色々あるということについての手がかりを得やすくなっていたように感じました。

≪追記≫
林業関係の取り組みとしては、その後、【2010年12月2日】には、きちろうさんの山林の枝落としのお手伝いをしました。【2010年12月5日】には、小代の大谷地区で、カキの木を50本くらい切る活動に参加をしました。そのとき森林組合から来てくださっていた一人、今井達幸さんとは、1月になってから、ちょくちょくお会いするようになりました。

以下、長いですが、私なりの把握で、8月26日の近畿の林業研究グループの発表内容を紹介するものです。興味のある方はどうぞ。

///////////////////////////////

【近畿ブロック各県の発表者】 イベントの主催者は、「滋賀県林業研究グループ連絡協議会」「滋賀県」「全国林業研究グループ連絡協議会」。「衰退状況にある林業の再生のためいかに取り組んでいるか」といったテーマで、各種団体が発表を行った。

≪京都府≫ 発表団体は、「京都府林業研究グループ連絡協議会 丹後支部」。主たるメッセージは、「間伐をすることで森の元気を保てます、手入れをしたらきれいな林ができることを実感しましょう」。これまでの活動は、良く手入れのされた他地域の森林をとにかく多数視察にゆき、そこから学んでみよう、というものであったが、他地域での課題や事例を、そのまま丹後の森に活かせないことに気づく。そこで、地元のなかで見るべきものをみつけよう、と「展示林」の選定を始めることに。森林管理の方針のしっかりした林や、今後の森林整備の参考となる良い森林を選び、気軽に見に行くことのできる近所のモデル森林として告知。それぞれに、間伐したての森であり見ごろは数年後であるとか、数年後に間伐を予定している森林であるとか、明示されており、間伐の効果について目で見て実感ができる。

≪奈良県≫ 発表団体は「奈良県林業女性グループ連絡協議会」。主たるメッセージは、「スギの透かし彫りという、出張先での体験講習の可能な題材を通じ、各地の人々に吉野スギの魅力にふれてもらっています」。透かし彫りは、年輪の部分(晩材、濃い部分)が、他の部分(早材、年輪と年輪のあいだの部分)よりも堅いことを活かし、図案にしたがいマスキングした領域(面)を削ったときに、堅い部分だけが縞々になって残る仕上がりになる工芸品。削り掘りに使う機械は大掛かりなものでなく、女性でも運搬可能。思い思いの図案で取り組むことができる。何より、吉野林業の特徴である、細かくそろった年輪の美しさが顕著にわかることが利点。

≪三重県≫ 「白山町林業研究会」による発表。主たるメッセージは、「自分の森がどこからどこまでであるのかがわからないことで、意欲の低下している森林保有者は少なくありません。境界の確認を自主組織により進めることで、森林整備(間伐)への動機づけを行い、林業所得の増大を目指しました」。境界確認のよりどころとなる資料が、昭和28年の分割図しかなく、当時の分割に立ち会ったひとの生きている今やらなくては、後々もっと大変な作業になる、と判断し、実行したとのことでした。

≪和歌山県≫ 「九度山町東部林研グループ」による発表。主たるメッセージは、「自然の中には、現代っ子の興味を引くものがたくさんあると考えております。林業教育(教室での授業と、森林での体験会)、森づくりボランティア(大阪など都市部から来るひと)の受け入れ、これらを通じ、私たちは来訪者に地域の一員として行事などにも参加してもらい、元気を取り戻しております」。子供たちの体験学習では、「1kgの重さとなるように丸太を切る」課題が、好評ですとのこと。また、木だけでなく、森の生態系全体に興味をもってもらえるように教えている、とのこと。大阪からのボランティア(NPO法人)の受け入れは、12年前より始まり、石道や生活道の整備活動や、敬老会・収穫祭での各種イベント企画などを通じ、地域振興に大きな一役を買っているとのこと。写真を交え、年々盛り上がってきております、との発表であった。

≪兵庫県≫ 「小代林業研究グループ」による発表。主たるメッセージは、「林業においては、50年~70年経たないと成果の判別のできない取り組みもざらにあります。私たちは、未来のための植樹事業に取り組む一方で、地域内の木がいつなんの目的で植えられたのかを思い描く想像力を育み、過去から現在へと続く森の連環についても明示できるよう努めました」。地元の少年野球チームが予想外の大活躍した年に、野球バットの原材となるアオダモの植樹を思いついた、とのことであった。予備知識もなく進めたが、種をとり芽をださせ、植樹を進めることに成功。野球バットの森と、バットの木(アオダモ)の並木道が将来できあがる見通しである、とのこと。過去の植樹年代を知る方法としては、年輪の数がそのまま植樹された年代を示すものではないことなど、判定法を学んだ様子であった。自分たちの子供時代に、戦時中の木炭づくりの経験があったことなども後代に伝えてゆきたい、とのこと。

≪大阪府≫「菊炭クラブ」による発表。主たるメッセージは、「クヌギ林から生まれる菊炭(池田炭)は、里山文化の生み出した最高傑作。私たちは、山林の荒廃とシカによる食害を乗り越え、炭焼き職人の技術を伝えるだけでなく、クヌギ林施行のさらなる改良などを通じ、組織でしかできない取り組みを維持・成長させてゆきます」。大阪府北部の山間のクヌギからつくられる炭が、池田市に集められ「茶の湯の炭」として売られ、池田炭、もしくは菊炭(切り口が菊の花のよう)と呼ばれてきた、と紹介。シカの被害への対策として、伐採を行うなかで、伐採方法を比較し、萌芽枝の成長効率のよい伐採方法を探究。木の肌質や炭の菊割れ数を維持するための、交配ルールや樹齢などの把握が今後の課題。

≪滋賀県≫ 「東浅井林友会」による発表。主たるメッセージは、「今まで育ててきた木が建築用材として利用できるまでに成長しました。森林所有者には若い人も増えています。私たちは長年にわたる経験により、各々の森林所有者や森林組合よりも、地元の山をよく知っているという自負のもと、森林組合が進めている施行集約化などのお手伝いをしつつ、山にとり必要な関心を高く維持しつづけております」 伊吹山系に囲まれた谷口林業地(長浜市)。林業機械のメンテナンス講習なども行う。

【選考】 今回の林業グループの発表は、審査員4名が6つの項目について採点を行い審査をし、近畿ブロックからの代表者(全国大会での発表をおこなう)を選出する対象でもあった。結果、三重県の「境界確認と森林整備の推進」が1位に選ばれ、井上孝さんたちの「地域の年輪を次代につなぐ~野球バットの森・少年に夢を~」は次点(2位)となった。

//////////////////

‥という感じでした。

★ 「地域内の木がいつなんの目的で植えられたのか」と問うときに、普通は、誰かに聞いたり調べたりするわけですね。しかし、たかしさんの発表では、「想像力が育まれていれば、木がなんの目的で植えられたのかを思い描けることがあります」ということがそれとなく言われていた気がします。データや事実がいくつ集められても、たどりつけないときがある。

想像力!

(歴史に熱心に取組んでおられる) たかしさんらしい切り口だな、と思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

35.歴史絵巻のスイッチ ON/OFF

【2011年8月23日】
実山地区には、武士たちの動乱のあった時代の痕跡がのこっているそうです。

このあいだかおるさんから聞いたような、源平の合戦の頃の、落人がここに滞在していた、という話もそうですが、そのほか、戦国時代の足跡もあるようでした。

戦国時代のは、小代一揆の平定にやってきた秀吉の軍による殺戮だった、とのお話を、たかしさんから教えてもらいました。

鳥取の山名氏や毛利? を討つために来ることになっていた秀吉が、その準備として、9号線沿いの村々を味方につけるキャンペーンを展開中でした。(いまの地名でいうと)養父、八鹿、村岡、‥と順に、秀吉の思うとおりに動くことを承諾したのですが、小代は、そうではなかったのでしょうか。抵抗をしていたのだった、とのことでした。
はじめ、家来の者(藤堂高虎)が小代の抵抗を抑えるように来たらしいのですが、小代はなかなか手ごわく、命からがら逃げる始末(その後憤死?)であったそうです。

それに激怒をした秀吉が、8000人の兵を率いて、この地に来たのだといいます。
村の男どもがみんな殺され、村のまんなかではりつけになった人もいただろうと言われているそうです。

みんな殺される、というのは、想像を越えています。そんな話を聞かされると、なんだか落ち着かなくなります。おりしも、小代のまんなかといえば、ここなのかぁ、と思いながら、田んぼをみて歩いていた頃でした。

Nads_32141
おじろのまん中といえば、ここだ、という人がおられました。

今でこそ、大谷地区という、商店街のある大きな地区があり、役場も郵便局も商工会議所もチコマートもあり、そこが、おじろのまん中であるように思われます。

上の「宮の前」は、大谷よりも、もう少し谷の奥へはいり、現在の中学校や小学校のある向こうのエリア。‥実山エリアの隣接エリアや、実山エリアです。

このあたりに、村の首長のような人の家があっただろう、ということが言われていました。

Nads_32151エリアのそばに、歴史紹介の看板がありました。

Nads_32161
歴史絵巻は、ときとしておそろしく影響力がありますね。

映画《エイリアン》をみたあとに、風呂場の扉をあけるのが怖くなるのと少し似ています。

「つわものどもが、夢のあと」とはよく言ったものです。

つわものどもが、この地でやりあっていたのだなぁ、ということを知っているのと、知っていないのとで、同じ景色をみても違ってみえる気がします。

Nads_32211
実山地区の、少し離れたところに、別の歴史紹介看板もありました。

こちらは、例の平家の落人(朝倉高清氏)のことを紹介するものです。

Nads_3219
いくさに負けたあとの、平家側の武人は、源氏側の者(権力の座にいよいよつこう、とする人たち)に追われる身であった、ということなのでしょう。

しかし、朝倉高清のこの地での隠匿が農夫の目撃証言などで「われてしまった」とき、朝倉高清は、どこかみどころのある印象を与える人物であったのか、強そうな人物だと思われたためか、関東で、源頼朝たちを困らせていた白猪を討つことを頼まれることになったそうでした。

白猪をしとめた功績をたたえられ、但馬の所領を与えられたのだといいます。
白猪? ‥怪獣と、看板には書かれていますね。

記録のある話ですが、伝説のような伝承のような話でしょうから、実際には猪ではなかったかもしれませんね。肌の白い巨体の豪族???

もう少し読んでみます。
Nads_32221
「高清は、1204年から2年間で城山城(じょうやまじょう、美方町忠宮)を築城し、一族から次の三者を小代郷へ送り、生活を安定発展させた。」

【2010年9月5日】
うへ山の棚田の刈り入れ前の姿をみにいった帰りに、城山城へ立ち寄った。山城であった。山の尾根にやぐらなどの跡がのこっていた。

なるほど。‥実山側から、貫田経由でのぼっていっても、城山城やし、あっちへおりたら、久須部川の渓流やし、そのまま山のすそのほうへゆくと、大谷なのでした。

秀吉が来たころにも、田公候というひとがお城にいたそうでした。すごい。
田公(たきみ)さんは、上の看板にも載っている名前。300年続いたんやね。

さて、上の看板の一番左に、「井上六郎」という名前がある。これは、朝倉高清の孫に相当する人らしいのだが、どうも、この人が、近年まで実山で本家だった井上さんの一族の祖であると考えられるそうなのだ。

えーー。700年続いたの?!
実山地区には、井上という姓の方が、20人以上おられます。

【2010年12月5日】
とはいうものの、直接のつながりがあったはずのお方は、現在埼玉県か、神戸市北区におられるとのことでありました。そうか、同じ苗字であっても、家系の違っている人だ、ということも多いのですね。

【2010年10月15日】
たかしさんは、自分の住む村に伝わる伝説だということで、歴史資料の文献を、かなり熱心に読んで調べられた、とのことでした。
現在、城山城の木製の碑が、朽ちかけている状態であるらしく、できることならそれを、石碑に変え、少し内容も拡充させてみよう、という構想を抱いております、と語るたかしさん。

なんでも、先日(10月11日)の新聞記事が印象にのこった、とのことであった。

彦根市市長が、安政の大獄の犠牲となった方々のゆかりの土地を慰問したところ、返礼に、各該当市長や町長が、井伊直弼の墓参りなどを行い、歴史的なしこりがほどけ、怨念を解き放つ第一歩となった。」
時とともに、歴史は刷新されるのだ、とお感じになったようでした。

たかしさんによれば、「最初の看板(秀吉による殺戮のことを伝えるもの)を作ったときは、≪訴えよう≫という気持ちが入りすぎていた、あおるような言葉を使ってしまったところもあった。自分たちの村の祖先の人たちが苦しんだ、ということだけを思っておりました。いまは、もう少し客観的な内容のものがつくれるのでないか、と思います。」

【2010年8月23日】
Nads_3217
実山から奥山へ入っていったときの、右手側に、落人のこもっていた内倉洞窟があるとのことでした。
そして、後になって、落人の子息のものが、苦難の日々を乗り越えたことを讃えつつ、今後の一族の繁栄を記念しつつ、お堂をつくった、というのが、もうひとつ別の左手側の山の上らしく、そこにあるのが峰山観音だという。

峰山観音のある峰は、実山集落のなかからは隠れてみえないという。
なので、その峰のみえるところに、この歴史パネルを置くことにしたのだ、ということのようでした。(また同時に、この場所じたいが、故事のある場所でもあるそうでした。)

峰‥ ちょっと見えてましたよ!
夏の夕暮れ時。雲がうっすらとかかっていました。
(逆光になり、写真に写りにくかったので、あとで少し補正をした写真です。)

【2010年12月1日】
私も、どうやら歴史ずきなところがあるようです。
時間旅行をして、いろいろな動くものに思いをはせることに、ロマンがあるのでしょうか。
歴史のことは、ときとして、心の一面にひろがり、注意力を奪ってしまいます。
スイッチがあって、そのときそのときで、ON/OFF ができたらいいのになぁ~。

**

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/11/30

024.射添エリア 2 ~芸おどりに取組む人々

射添エリアのなかのいくつかの地区では、芸踊りの伝統があります。芸踊りへ着目することで、何が映し出されるでしょう??

◎ 8月下旬に、学校のグラウンドで、「芸おどり・盆まつり大会」があったので、観に行ってきました。
【2010年8月21日】
柤岡(けびおか)や長板などの地区も参加していました。

柤岡(けびおか)は、湯村温泉へゆくときに通る、春来峠(はるきとうげ)の手前の急斜面上にある集落です。
ほんとうに切り立った崖のようなところに、たくさんの家が並んでいます。小代の秋岡地区と、どちらが急斜面だろう。

Nads_31231もとはといえば、病院の待合室で、町の広報誌を読んでいたことがきっかけでした。

Nads_31311 (やっぱり、写真があったほうがよく伝わるんだろうなぁ。
しかし、カメラマンではないし、すぐ近くまで行って、大写しにしたりする許可をもらえんだろうなぁ。驚かれるだろうし、こちらも緊張するなぁ。)

 

【2010年11月2日】
柤岡(けびおか)へ行ったときの印象を、近所のたけのさんへ話すと、たけのさんは、こんなことを言っておられました。

「山の上の行き詰まったところにあるような集落では、皆、何か鬱屈したものを抱えてしまうせいか、それをうまく発散させる芸事が発達するみたいだ。」「(私たちの住む) 新屋でも、踊りや村芝居が盛んだし、柤岡(けびおか)でも、踊りや芝居をする人が多かったものだよ。」

/////////////////
標高の高い集落や、斜面にある集落に、「芸踊り」「村芝居」などの伝統がのこっているらしい話をきくので、「射添」地区と「小代」との共通部分なのでないか、とも思われ、私も気になっていたところでした。

「芸踊り」では、サムライの格好をした人が、刀をもって踊ります。土地によっては、2つの役割を演じわけるような動きがあったりもするそうです。子供が踊る場合と、大人が踊る場合とあります。やくざ踊りと呼ぶ踊りもあるようでした。

昔からの伝統がそのまま途絶えずに残っている地区もあれば、いったんは途絶えてしまったものの、やはり「次代へ伝えなければ」「保存しなきゃ」といった声とともに、再開することになった地区もある様子です。

【2010年8月15日】
新屋地区の芸能同好会のメンバーが、向かいの秋岡地区の盆踊りに、芸踊りで出演をすることになりました。私は、入場のときに、旗をもつ役をさせてもらいました。

そのときの帰り道に、踊りや芝居の伝統が、歴史的には「百姓一揆のあった頃までさかのぼるらしい」「歌舞伎が発生したときのような状況から産み出されたようだ」などのように言われているのを聞きました。

こういうことが、ふだんの会話のなかで話されてるってことに、いちいち驚いてしまう私でした。伝承の話がたくさんあり、語られている歴史がある。

//////////
さて、もし、これが「百姓一揆に備えて、農民が、サムライの格好をして、刀をもって踊った」「そういう踊りが、芸能として発達した」というハナシなのであれば、これは、ブラジルの「カポエラ」の話ともどこか似ている気がしました。

「カポエイラ」は、ブラジルへ強制的に連れてこられたアフリカの人々のあいだで、主人からの虐待から身を守るべく編み出された、音楽やダンスにみせかけた格闘技。
円陣を組んで太鼓や楽器が鳴らされ歌声の飛び交うなかで、2人の人物の体が交互に舞うように動きます。おおっぴらに格闘技の練習をするわけにいかなかったので、ふざけて遊んでいるように見せかけつつ発達していったのだと言われます。

それでは、どうして、小高く切り立った斜面に住む人々が、百姓一揆の頃からの伝統をあたためているのでしょう?
そもそも、なぜ、誰に対して、百姓一揆をしなきゃいけない状況が発生したのでしょう?

【2010年11月30日】
百姓一揆は、日本の歴史のなかで、恒常的に発生してきたものだというよりは、わりと、(土地ごとに)ある時期にピンポイントで発生したものだった気がします。

調べるつもりで調べたら、どんな農民がいて、どんな侍が来て、両者の関係がこうこうとなる社会構造で、‥と、それなりのことがわかりそうです。

しかし、歴史のことは、また後日に、取組む機会があることだろう、と思い、今回は深追いしませんでした。

集落支援の取組みの観点からは、盆踊りや秋祭りなどの行事ごとの運営が、集落ごとにどうなっているのかを知ることそのものに焦点をあてられたらよいのでないか、と思いました。

私の住んでいる≪新屋地区≫では、よその地区の盆踊りに呼ばれるくらい、さかんな踊りの取組みが続けられています。秋祭りのときは、前夜祭で、「三番叟(さんばそう)」という神事にかかわる儀礼と、村芝居の上演があります。祭りの当日朝には、「はやしこみ」といわれる、太鼓とかけ声からなる(?)練り歩きがあります。[※雨天のため見られなかった]

私の担当集落である≪実山地区≫では、盆踊りをしなくなってずいぶんと経つ様子です。秋祭りのときも、太鼓や笛のできる人がいなくなり (あるいは家人の病状が悪く出られなくなり) 上演ごとも練り歩きもありません。

Nads_31661

射添の盆まつり大会のときのたこやき屋台。

おじさんにたずねてみると、ふだんは、湯村のジャンボ西村さんというスーパーのところでお店をしているという。‥おお。私が怪我をしたところなのでした。

【2010年9月8日】

浜坂で、但馬の商工会女性部のイベント(セミナーとワークショップがあり、私は浅見さんのお手伝いでゆきました)へ行ったあと、帰り道に、湯村を通るので、たこやき屋さんへ寄りました。

おじさんは、うっすらと覚えてくれていました。

「今度、香住鶴(日本酒)の祭りにも行くから来てください」と言われました。

祭りあるところには、おじさんの姿がみえる、ということなのでしょう。

ひっぱりダコですね!

追記

【2011年2月26日】

村岡区で、雪まつりイベントがありました。

屋台の出店があるので、近づいてみると、‥湯村のおじさんでした!

私は、「いつから、たこやき屋さんのおっかけをしてたのだっけ?」

と自問しつつ、笑みがこみあげてきました。

雪祭りは、正直かなりびっくりしました。雪でつくった灯篭が、いくつ並んでいたのだろう。でっかいペイントされたカマクラも3つ以上ありました。音楽演奏のステージに人が集まっていました。素敵でした。

村岡で、この規模の雪まつりがあるのは、初めてじゃないかね、とおじさん。

ついこのあいだに、湯村で、ライトアップのある雪まつりがあったから、それを参考にしてもいるかもしれないね、とおじさん。

さすが、お祭り事情にはお詳しい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/11/12

016.兵庫県とのご縁

小代での初夜(!) の後半戦は、新屋のオフィス(兼家)にて。

県職の方が泊まってくださるということになり、わが社の浅見氏とともにテーブルを囲んでなごやかに過ごさせていただきました。

県の方は、但馬じゅうを駆けめぐってお仕事をされているN氏で、このひと晩のあいだにも、沢山のことを教えてくださりました。地形や風土の話、農業政策関係の話題など。

県の方の話に促されるようにして、私の脳裏では、自分(大阪在住30数年)のこれまでの人生のなかで、兵庫県とのご縁がどんなものであったかが、スキャンされていました。

思えば、自分が子供の時分は、兵庫県とは神戸のことでした。
母が、週に1回アルバイトで、東灘区のあたりの喫茶店へ行っていたのです。音楽好きの人の集まる老舗のお店(もともとは大阪梅田新道にあったものが移転)でした。阪急神戸線の岡本駅あたりでした。そのエリアは、通りを歩いているだけで、いい匂いのしてくる、という印象がありました。ショーウィンドウの向こうでは、おいしいパンやおいしいお菓子が湯水のように沸き出ているエリアだったのです。

中学生の頃になると、合宿でハチ高原/鉢伏山へ行きました。夏だったのか? 冬だったのか? 両方だったのか??  地理の授業のときに、「そのエリアの立体地形図を作る」という作業のおまけつきです。立体地形図は、分厚い画用紙を標高線に沿ってくねくねと切ったあと、山脈の形になるように段々に重ねて貼り合わせてつくります。★思春期の頃に、私は、関宮から村岡を経て、小代(高丸山)を越え、氷ノ山あたりまでの山脈一帯を、自分の手で触ってすごした、というわけです。いま思い返しますと、たいそうなご縁です。

20歳過ぎの頃に、震災があったとき、海側に住んでいた親戚や知人をたずねて歩いていったりもしました。

他方、いとこのお兄ちゃんが、仕事で丹波エリアに住むようになっていました。また、自分は、仕事先の同僚と一緒に、出石や竹野など日本海側へ出たりするようになりました。

一番最近は、業務用冷蔵庫などの搬入設置業で、遠方担当になったときによく通いました。姫路や西脇市にとどまらず、朝来市や養父市まで来るようになっておりました。この頃になると、兵庫県のデカさを、徐々に体で知りはじめた、というわけです。養父市八鹿の市街地へ来たのは、1月下旬のことで、雪がそれなりに積もっていた日でした。道中に車の事故などを見たりして、路面凍結の怖さを知った日でもありました。

などなど。

さて、7月31日の晩は、思いを新たにしつつ、兵庫県さんとの新しいご縁の喜びをかみしめつつ、更けゆきました。朝方4時半くらいまで、なごやかな時間が続きました。

**
◆8月の朝来市。山東町のあたりだろうと思われます。
Mg0498
平地の敷地のそれなりにたっぷりとあるところでは、人々は斜面に住まない、のでしょうか??

◆小代の吉滝にて。【2010-08-01】
Mg0157 滝の裏側へゆけるんです♪

| | コメント (0) | トラックバック (0)

015.小代の夏祭り

【2010-07-31】
新屋のオフィスへの引越しが完了したのが7月31日。
手伝ってくれた人が、夕方前、家のすぐ近所の秋岡というところを出る最終バスに乗り、大阪に向け出発。その40分後くらいに、最初のお客さんが到着しました。

兵庫県(県庁)の方でした。

ちょうど翌日の、「獣害レンジャー」という組織が出動して、サル対策の電気柵を畑に設置する、という作業を控えてのことでした。
朝早くからの作業なので、前乗りで、皆さん泊まってスタンバイされるわけです。「獣害レンジャー」としては、おもに大阪方面から、20歳前後の若い人を中心に、10名ほどがかけつけてくれていました。自然環境 / 動植物系の専門の学生の人が多かったようです。

この日、小代では夏祭りが開催されていました。

熊の研究をするためにアメリカの大学より来ている、というひとの滞在する広い家をお借りして、若い人が自分たち向けに、とご飯をつくっていました。それを、われわれも一緒にいただくことになり、およばれしました。それから温泉施設「おじろん」でひと風呂をあび、夏祭りの開催されている会場へ行ってみることに。

なんだなんだ?
Mg0114lute
なかなか人がたくさんいて賑わっています。
若い人たちで結成されている様子の団体などもあり、
祭りという名に相応の盛り上がりでした。

ステージイベントなどもあり、但馬牛のことを紹介する寸劇などのほか、手品(少しセクシーな手品?)や歌謡ショー(松田聖子役として聖子ちゃんの歌の数々を披露する、聖子ちゃんの雰囲気をまとった芸人さん)などがあり、なかなか華やかでした。

地元の中学生の子らでしょうか。ステージの最前列で、ノリノリのからみで、会場側からも盛り上げます。あまりの熱気に、大阪から来た学生さんが、圧倒されてしまうひとコマもありました。

あとでわかったことですが、小代全体で、人口が減っていると言われながらも「非常に子沢山で元気だ」という風にみえる集落がいくつかあるにはあるようだ、ということでした。他方で、実山地区のように、もともとの人数規模が小さいこともあって、過疎化と高齢化に悩む集落もある、ということのようです。

この日は、実山地区のひでおさんが、ずっと一緒にいてくださっていました。
それから、ひろもとさん、という方と初めてお会いしました。小代の味覚だよ、とチョウザメの寿司などを教えてくださり、歓迎してくださいました。
また、以前に一度お会いした、のぶよしさん、という役場の方が、色々とお話をきかせてくださいました。
売店でお茶を買うたびに、面白いやりとりでからんでくれる方々もいました。
音響のPAは、日本海側の町から出張で来られていました。音楽活動をされている方で、またお会いできるといいですね、と話をしました。

――小代に住むことになった最初の晩、の前半戦でした。

Mg0131lute
獣害レンジャーの学生さんたちが、「聖子ちゃん」と記念写真。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/25

011.お隣さん・ご近所 1

隣にあるものについて、「お隣さん」という呼び方をしてみると、親しみを感じる。

いま勤めているところや住んでいるところと隣接したエリアについて、「どこどこは、隣の町ですわ~」という風な思い方をすることによって、親しみがわく場合がある。

しかしひょっとすると、自分は、「お隣さん」をむやみに使いすぎているのではないか、とふと思った。

  • このあいだ、「村岡」でご飯を食べていたとき、「小代から来ました、お隣ですわ~」と言っている自分がいた。小代区と隣り合ったところに村岡区があるから、お隣だと思っている。
  • 以前、「湯村」のバス停にいたとき、電話で、「今、隣の町に来ているのですが。。」と話した。峠をひとつはさんで隣り合っているので、お隣だと思っている。
  • 車で小代に向かっていて、まだ「養父」市を走っているとき、「ここは、まだ隣やで」と同乗者に説明している自分がいた。あるトンネルの手前では「養父市」と表示され、そのトンネルの向こうでは「香美町」(自分の住む町)と表示されるので、やはり、隣だ、と思っている。

「お隣さん」に該当するものが多すぎると、隣で聞いている人は混乱するのではないだろうか??  親近感を受けとる範囲をめくらめっぽうに広げることで、八方美人だと思われるのではないだろうか?? 

とはいえ、心配には及ばないかもしれない。「お隣さん」は、「ただ隣であること」を示す表現であり、親近感を抱くことを強要するものではない。それに、長野県のような、数多くの県と隣り合った県に住む人が、愛想をふりまきつつ混乱しているというわけがない。

**
私の好きなトピックの1つに、「国道 9号線の今と昔」という話がある。
何人かのひとに、R9 の昔はどんなんだったのですか? とたずねたのだが、なかなか面白い情報が得られる。
ちょっと昔にさかのぼる話のなかでは、トンネルがまだ開通していなかった頃のルート(旧道)を利用していた時分の思い出ばなしなどを聞かせてもらえる。
もっとずっと昔にさかのぼる話のなかでは、国道9号線という呼び名がつく前の街道の話になる。街道ばなしにも、江戸時代の街道から、さらに昔、古代(平安時代以前?)の道についての話までが含まれるわけだ。

ここで、その「ちょっと昔」の、トンネルが開通する前の状況に的をしぼってみよう。大昔すぎない話。今生きている人の記憶のなかで振り返られる程度の昔。さて、実山の人と話をするなかの節々で、「昔はトンネルがなかったものだから、あすこまで行くのにも時間がかかった」という話をよく聞くことに気づいた。

高齢の方の話をきくなかで、みえてきたことであるかもしれない。「今でこそ、トンネルがあって、行き来がしやすくなっているが、昔はそうではなかった。」「行き来のしにくい、峠の向こう、山ひとつ向こうの町は、自分たちのすむ町とぜんぜん違う世界、異空間、であるかもしれなかった。行き来の少ない町どうしを比べたら、習慣やすむ人の気質などに違いがあっても、不思議ではなかった。」

‥ということは、山間部でおこなわれる会話のなかでは、「お隣さん」イコール「遠い、行きにくい、アウェイ」なのだ!
隣り合っているということを、「もうすぐそこ、近い、ホームのそば」である、親近感を抱いてもよい対象である、とみなす私の感じ方とは≪別の感じ方≫をはぐくむ土壌があったのだ。

但馬のなかには、「内陸の山間部」で、「鉄道も走っていない」というエリアがざらにある。そういうところでは、「トンネル」ができるまでは、互いに行き来の少ない町どうし、という意味での「お隣さん」だらけだった、ということになる。‥おおお。

**
ちなみに、大阪での、「トンネル」体験(私にとって、トンネルとは何であったか)もいちおう記しておきます。

私の住んでいたところの近所で、「トンネル」と言えば、大半が、鉄道をくぐる地下道のことであった。

  • JR新大阪駅(高架化されていない地上の駅)の、何本もの線路をまとめてくぐる、長い地下道があった。
  • JRの貨物線をくぐる、長い地下道があった。
  • 安治川という川をくぐる、長い地下トンネルがあった。(地下トンネルのできる前は、渡し舟があったらしい。)
    などなど。

平野部に暮らす生活のなかでは、トンネルとはこういうものではないだろうか。
鉄道や川を、その流れをさえぎらずに横断することを可能にする通路。
但馬に住む人々と、「トンネル観」は、かなり違っているはずなのだ。

このあいだ、大阪に住む母が車で小代へ来たのだが、第一印象として口にしていたのは、「道中にトンネルが多いなぁ」であった。やはり、大阪市内に暮らしているなかでまず目にしない、「山の中に突っ込んでゆくトンネル」が印象にのこった、というわけだ。
(もちろん、山の中をくぐるトンネルをまったく知らずに生きてきたわけではない。大阪市からそう遠くないところの、箕面、生駒、六甲などの山々でトンネルがくぐっていたはずだ。)

**
さて、冒頭に記した、私にとって「お隣さん」として現れていた3つについて、簡単に整理をしておこう。

  • 「村岡」(兵庫県美方郡香美町村岡区)‥「小代」(兵庫県美方郡香美町小代区)のすぐ隣の区。
  • 「湯村」(兵庫県美方郡新温泉「町」のなかにある)‥「小代」(兵庫県美方郡香美「町」のなかにある)からみて、隣の町内にある。
  • 「養父」(兵庫県養父市)‥兵庫県美方郡と隣り合った市(旧養父郡)。旧八鹿町の役場を市役所とする。旧八鹿町から山ひとつへだてて(もしくは円山川をのぼって)、旧養父町がある。旧養父町エリアにゆくと、養父市場地区(牛取引の神様のいた? ところ)、大藪地区(現在の「但馬牛のせり市」のあるところ)などがある。

それでは――私の感覚との比較ばかりになり申し訳ないが――3人の但馬女性の話を引用し、「お隣」感覚の色々をみて終わることにしよう。

【2010年8月18日】
実山にて、たまゑさんという人が、こんな話をしてくれた。
「隣の」という言葉の使われ方に注意をしてみると面白いかもしれない:

/////
「昔、うちでも牛を3頭、4頭飼っていた。仔牛を育ててました。」
「60日経ったら、発情して、種付けしますがな。」
「種付けをする人は、隣の湯村にいるのだけれど、遠いので、大谷(小代区内)まで出張して来てくれました。」
――仔牛は、どこへ売りにゆくのですか (いのりがたずねる)
「牛は、今だったら、養父でやってるせり市へ売りにゆきます。」
――あ、隣の養父まで行くんですか?
「(え?) 養父、だから、隣といっても、もっと遠くで、‥あれは隣だかな?」
「‥それで前は、温泉町まで売りに行ってました。」
「そして、そのもっと前は、隣の村岡まで売りに出てました。子供の頃のことです。牛を追って歩いてゆきました。朝早うに、と言っても夜中ですが、ちょうちんをとぼして歩いて行って、朝になったらちょうど着きます。」
/////

[★ ちなみに、養父のせり市 ってこんなんらしいです。私は行ったことがなく、初田さんの記事、参考になりました。]

上のたまゑさんのお話をもとに考えるなら、小代で牛を飼っていた人々は、山間部に住まう人のなかでは、「行き来をよくする人」の部類に含まれる人々だ、ということになるかもしれない。(せり市が町の外にしかなかったということにより。)

では、「行き来をあまりしない人」という部類があるのだろうか??

【2010年9月22日】
実山の下(しも)[小学校に近い、川のそばの方] の畑へ出てこられていたある女性の方のお話。

/////
「娘は、いまは神戸に住んでいますが、昔は実山で私と一緒に住んでいましたよ。」
「娘が、このあいだ、小代出身のひとなら、知っているだろう、ということで、小代で撮ったという写真をみせてもらったらしいのですが、ひとつも分からなかった、と言ってました。」
「小代に住んでる、というても、(私たちは)どこへも出かけないからだと思います。私も、小代になにがあるか、知らないです。‥あなたのほうがきっとよく知っているでしょうに!(←「よう知っとりんさるだろうに」)」
「私は、家の裏の畑と、この川のそばの畑へは毎日のように行きますが、それ以外では、もうひとつ上(かみ)のところにある橋へとつづく道を散歩がてら歩きにゆくくらいで、ほかはどこへも行きません。」
「あとは、そこ、向かい[※山を背にしたとき、実山から矢田川に向かって対岸部分]の忠宮(ただのみや)へ行くくらいです。」
/////

この方にとっては、ほぼ集落内の移動しか行わない、ということであるから、出かけてゆく先、もしくは道中としての「お隣」が存在していないことになる。「お隣」に近いものとして、「お向かい」が出てきたのは、谷という地形特有の発想だろう。

この地では、「お隣」であろうと、「お向かい」であろうと、猿やイノシシが自分用の道をつたってやってくる、という意味では、あまり違いのない隣接エリアである。しかし、小代の谷では、集落の「お隣」といえば、あいだを山の尾根でへだてられ「見えない」存在であるが、「お向かい」といえば、川をへだてた向こうに「見える」存在である。

ちなみに、私の住む新屋地区にとっての「お向かい」は佐坊(さぼう)。矢田川をはさんで、やはり対岸にあり、同じくらいの標高のところにある集落。標高は同じくらいだが、新屋は北向き(北西向き)の谷、佐坊は南向き(南東向き)の谷。太陽との関係が違い、佐坊地区のほうが「暖かい」という。‥うらやましい。

**
最後に、スケールの違う「お隣」観に、ド肝を抜かれる話。

【2010年9月12日】
梨を買いにいく、梨は稲刈りを手伝ってくれたひとへのお礼にあげるのにちょうどよいから、という話を、新屋のご近所に住む植垣たけのさん(84歳の元気な女性)から聞いていたときの言葉:

/////
――鳥取砂丘のそばに、梨の直売店のならぶ道(「ふくべ梨狩り街道」というのかな)があるみたいですよ。鳥取砂丘へは行ったことありますか? (と、いのり)
「(鳥取砂丘)砂の美術館は、おばちゃん行ったことがある。老人会の遠足だったかなんだったか。」
「行ったことがあるけれど、しょっちゅう行くところではない。」
――(地図をみながら) 鳥取砂丘は、小代口を出て、車で50分ほど移動したらたどりつくんですね??
「‥隣町かな、やっぱりここは。しょっちゅう行くところではないけれど、いざ着いてみたら、すぐだし、隣町という気がしてくるでナァ~。」
「(鳥取砂丘にゆくまでの道中にみた景色について) 耕地も広くて、ハウス(農業用ビニールハウス)も作れて、うらやましい。ちーっこい(小さい)土地の段々畑しかない新屋とは全然違う。熊やら猿やらを、ぜんぶここ(地図上の鳥取砂丘)へ持って行きたいわ。」
/////

このおばちゃんにとっては、地形も風土も「(小代の)新屋地区」とぜんぜん異なる「鳥取砂丘」であるが、車で一本道でたどり着ける以上は、隣町のようなものだ、という把握がなりたつ様子であった。
「お隣さん」であるとみなす、ということは、自分の町と対等に比較できる対象としてみている、ということであり、そのうえで、「うらやましい」などの感情が伴っているようだ。

鳥取、というと、兵庫県からみると県が違うし、すごく遠いところ、というイメージを抱いていた私にとって、上のたけのさんの言葉は、なかなか意外に思われるものであった。

‥大阪へも、隣町のような感覚で帰ったりできるとよいのにナァ~。
何人かのひとが、小代に住むことについて(豊かな自然に囲まれていることだし)「うらやましい」と思ってくれているのだが、行き来さえしやすくなれば、みんなが小代へ来ることができてそう思うようになるかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)